母の死 グリーフケアのために書き綴る その18 一周忌
母が亡くなって1年が過ぎた
先月1周忌も終わった。母がいないことが日常になりつつあるのだが
まだ、実家に帰ると。母が出てきそうな感じがする。
一周忌は、コロナの関係もあり、家族だけで行った。
住職が来て、お経が始まる。
普段は落ち着きがない子どもたちも、何かを感じたように落ち着いて座っている。
お経が頭の中に入ってくる。母が亡くなったことを痛感するとき。
兄の時もそうだったように、亡くなった感じを増幅させる。
そして、あの世でゆっくりとしていて欲しいと思う。
今読んでいる上橋菜穂子さんの「夢の守り人」に、死んだ者の魂は、生きている間のことをすべて忘れて、また、新しい体へと入っていくという件があった。
兄の魂は新しい体に入ったのだろうか、そうであればその人にちょっと会ってみたい。
そして、母の魂は、私のことを忘れてしまうのだろうか?
それはそれで悲しい。
お経の後
お経の後は、皆で食事をとった。一通り食べた後、娘が
「いつもなら、おばあちゃん、リンゴ食べてって出してくれたね」
息子が、そうだそうだ
「そして、スイカも買ってたかも」
僕が好きだと言ったから・・・
子どもたちの記憶にはちゃんと、おばあちゃんが生きている。
そうだよね、魂の記憶は無くなっても、私たちが生きている限り母のことは忘れない。
生きているんだって。そのことに気が付いた
そう思ったら、少し楽になった。
ありがとう、子どもたち。(母のことを覚えていることも)
昼休みのバス停で・・・
今日の昼休み、母とよく待ち合わせした、バス停を通った。
いるはずもない母を探した。なぜならそこに居そうな感じ、いや思い出が頭の中をよぎり、待ち合わせに遅れて、ずいぶん待たせたこと
逆に、こっちが待ったことと。そのあと、一緒に買い物して食事をしたこと
そんなことが、思い出というより生の感覚として身体をよぎる。
そんなことを 感じながら歩いていると、涙が出そうになった。
子どもたちと過ごしていると、母のことを忘れる。
生きているときもうそうだったように、毎日忙しく考える余地もなかった。
しかし、今はこの世に存在していない分、思い出したときより身近に感じるようになった。
まだまだ悲しみは癒えない。やっぱり、母のいないこの世界にもなれそうもない。
まだ、一年なのでこんなものか・・・。